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意外と知らない?ドイツの発明品(3)

今では日常生活に欠かせない、当たり前になった多くのものが、実はその昔ドイツで発明されていたんです。

ドイツと日本、距離は随分と遠く離れているため、中々イメージしづらいかもしれませんが、代表的なドイツ発の発明品を紹介します。

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コンパクトカメラ

発明者:オスカー・バルナック(Oskar Barnack)
時期:1913年
場所:ヴェッツラー(Wetzlar)

©dpa

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1913年〜1914年、オスカー・バルナックは世界初のコンパクトカメラを個人的に開発し、写真に関わるあらゆる分野に革命を起こしました。

バルナックは精密機械工で、自然の中で写真を撮るのが好きな控えめな性格の人でした。

喘息もちという身体的な制限を抱えており、当時の重いプレートカメラや大判カメラは彼にとっては大きな障害でした。もっと小型のカメラが必要だったのです。

バルナックはプロトタイプ用に、まずロール状の35mm映画フィルムを使用し、カメラのサイズの大幅な縮小に成功。

そして1924年、遂にライカⅠという世界初のコンパクトカメラの生産が始まりました。

ハンディなライカはすぐにヒット商品となり、また、新型カメラによって初めてフォトシリーズの撮影が可能になったことで、現代的なフォトジャーナリズムの礎石がおかれました。

謙虚なバルナックはヴェッツラーの光学機器メーカー、エルンスト・ライツ社の組み立て部門で生涯働き続けました。

仕事の傍ら、音楽を愛し、名人並みの腕前でチェスに興じ、自然の中で写真を撮って暮らしました。

 

テレビ

発明者:マンフレート・フォン・アルデンヌ(Manfred von Ardenne)
時期:1930年
場所:ベルリン(Berlin)

1936年  ©dpa

1936年
©dpa

マンフレート・フォン・アルデンヌは高校も大学も中退した人です。しかしながら、彼はその発明によって20世紀という時代に他に類を見ないほどの大きな影響を与えました。

23歳という若さで、ベルリンの私設研究所「電子物理学研究所」でテレビを発明し、ブラウン管内の電子線の動きによって送信機から受信機へ映像を伝送することに成功した初めての人です。

1931年にその発明をベルリン・ラジオ・ショーで紹介し、今日の全電子式テレビの基礎を築きました。

アルデンヌは遠距離通信(テレコミュニケーション)分野だけでなく、他の研究分野でも一連の画期的な発明をしています。

最も良く知られているのは、間違いなく走査型電子顕微鏡です。

それまでになかった鮮明さを実現し、あらゆる顕微鏡検査とさらに広い科学分野に革命を起こしました。

 

電磁浮上鉄道(リニアモーター式鉄道)

発明者:ヘルマン・ケンパー(Hermann Kemper)
時期:1934年
場所:オスナブリュック(Osnabrück)

1934年にベルリンで申請されたドイツ帝国特許番号643316号の背後には、後にトランスラピッドや日本の JRマグレブといったハイテクプロジェクトの基礎を築いた発明が隠れています。

この特許は磁気浮上式鉄道技術の原理に関わるものです。

ケンパーはハノーファー工科大学在学中の1922年から電磁石に取り組んでいました。

研究活動の中で、磁石の負荷能力を鉄道の車輪の代わりに使用するアイデアが浮かびました。

とはいえ、ケンパーは鉄道ファンだったわけではありません。実家が鉄道路線の近くにあったことで発明へと突き動かされたと言われています。

通り過ぎる列車が彼にとってはあまりに汚く、うるさく、煩わしかったのです。

ケンパーの研究はトランスラピッド技術の基礎を築きましたが、存命中にその発明から利益を得ることはできませんでした。

アイデアを支援してくれる投資家が見つからなかったのです。

他の多くの発明家と同様に、ケンパーもまた時代より遥かに先を行っていました。 1972年にその研究を讃えられ、連邦功労十字章を授与されました。

 

ヘリコプター

発明者:ヘンリッヒ・フォッケ(Henrich Focke)
時期:1936年
場所名:ベルリン(Berlin)

FW61(複製) ©dpa

FW61(複製)
©dpa

学生時代のフォッケの数学の成績はごく普通で、未来の技術者としては特に良い条件を備えていたわけではありませんでした。

フォッケは研究への飽くなき情熱ひとつに突き動かされ、本人の言葉によると、「全力を尽くして」必要な数学の知識を習得しました。

ベルリン工科大学で機械工学を学んだ後、ゲオルク・ヴルフとともに航空機を何機も製造。

2人は1924年にブレーメン航空機製造を設立し、同年フォッケ・ヴルフAGとして株式会社に組織変更しました。

1933年までに総計140機の航空機を製造し、アルバトロス航空機製造と合併した後、フォッケはヘリコプターの開発に力を注ぐようになります。

努力の結果、1934年にFw 61という非常に性能のよい世界初のヘリコプターの発表に漕ぎ着けました。

しかし会社の経営陣はこの発明の潜在力を理解しなかったため、フォッケはヘリコプターの製造に全力を傾けるため、自ら設立した会社を去りました。

第二次世界大戦後、航空分野のさまざまな企業や機関の顧問として活躍し、1979年にブレーメンで亡くなりましたが、その栄誉を讃えられて数々の賞を受賞しました。

 

コンピュータ

発明者:コンラート・ツーゼ(Konrad Zuse)
時期:1941年
場所:ベルリン(Berlin)

Z3 ©dpa

Z3
©dpa

コンピュータの製造国についてまず思い浮かぶのは現在ではアメリカ合衆国、シリコンバレーや東南アジアの国々ではないでしょうか。

それだけにデジタル革命揺籃の地が70年前のドイツであるといえば、大きな驚きをもって受け止められます。

コンラート・ツーゼは長い間真価を認められず、ほぼ忘れられた存在でしたが、今日では現代のコンピュータ技術の先駆者とみなされています。

ツーゼのZ1とZ3は世界初の二進法式計算機と世界初のプログラム可能なデジタル計算機とされています。

1910 年6月22日ベルリン生れのツーゼは、ベルリン・シャルロッテンブルク工科大学で機械工学を履修後、25歳でヘンシェル航空機製作所に就職。

その1年後、エンジニアが計算作業から解放されるようにと、プログラム可能な機械についてアイデアを確立しました。

その構想を実行に移すべく、ツーゼは同社を退社し、1936年にツーゼは26歳という若さでベルリンの旧築アパートで初めて計算機を組み立てました。

彼の発明は革命的でしたが、人との繋がりに乏しく、さほど注目されませんでした。

1938年には機械式計算機Z1を完成させます。もっとも部品の精度不足のために完全動作には至りませんでしたが、この機械は作動しました。

二進数で表現された片対数の浮動小数点を用いた世界初のコンピュータで、プログラムはブールの命題論理に基づくものでした。

ツーゼは1939年から自らの機械に改良を加えるとともに、更に技術開発を進めて、1941年には計算装置とメモリーに電話機用のリレーを使ったZ3を完成させました。

Z3は自動制御の二進法による計算機で、今日では世界初の完全に動作するコンピュータとして広く認知されています。

1995年に亡くなりましたが、存命中にはその仕事への評価の一部をわずかに体験できたに過ぎません。

しかし、生誕100年にはドイツの複数の都市でツーゼを讃える展覧会が開催されるなど、彼の発明はその影響力を失っていません。

今でも小型で性能の良いコンピュータの中には分解型複素数、実行ユニット、記憶ユニット、プログラムユニットから成るツーゼ式基本構造が多く見られます。

 

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著者紹介

大使館スタッフ

ドイツ大使館 広報部の職員による投稿です。 こちらもよろしく! Twitter: @GermanyinJapan Facebook: @GermanyInJapan Website: ドイツ大使館 今週のドイツ語が本になりました!→「ドイツのことば図鑑

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