わたしのDDR〜 東ドイツ民主化運動へと繋がった、平和への思い
2019年11月9日、ベルリンの壁崩壊からちょうど30年。壁の崩壊から東西ドイツ再統一を経て、”なくなってしまった国“東ドイツは、どんな国だったのでしょうか?ここに生まれ育ち、激動の90年代に翻弄された東ドイツの人たちに、当時の話を聞く企画「わたしのDDR(東ドイツ)」!
ファッションモデルのレナーテさん、物資がない中で工夫しつつ美味しいケーキを作ったコルネリアさん、芸術家のドリスさん、元看護師のハイジさん、テレビ局で働いていたウタさん。
第6回目は、エルケ・シュルツェさんです!
1967年、エアフルト生まれ。
「おとうさんとぼく」で知られる、e.o.プラウエンこと、エーリヒ・オーザーの美術館館長さん。
エーリヒ・オーザーは、ナチスを批判する風刺画が見咎められて1933年、作家活動を禁じられ、e.o.プラウエンと名前を変えて「おとうさんとぼく」の連載をはじめた人です。第二次世界大戦勃発後、紙不足もあって仕事場を失った彼は、兵役免除と高い給料を約束され、ナチスが出していた週刊誌「帝国 Das Reich」に寄稿することになりました。作家仲間から批判を受けたオーザーはこういったと言います。
「俺はナチスには反対しているが、ドイツは愛している」―何が悪い。
「歴史は、簡単に白黒が付けられるものではありません。自分が加担していることが悪いことだと感じていても、納得していなくても、生活のためにはしょうがないんだとか、周りの人もみんなやってるからーと、自分に嘘をついているという自覚もなく、やってしまうのではないでしょうか」
エルケさんは、東ドイツ時代と東西ドイツ再統一からの年月を知っているからこそ、ナチス批判をしながらもナチスのプロパガンダ雑誌で仕事をし続けたオーザーのこの心の動きは実感できると、教えてくれました。
この言葉が心に残り、私はエルケさんに改めてお話を伺う機会をもらいました。
彼女が関わり、東ドイツ政府に目を付けられることとなった平和運動は、ベルリンの壁崩壊、東ドイツの民主化を進めるきっかけとなったものでした。
「剣を鍬に」―ベルリンの壁崩壊、平和革命につながった平和運動
生まれ育ったエアフルトから、東ベルリンへと引っ越してきたエルケさんは、1980年代、平和運動に関わったことから猛烈な批判を受けて、大学進学も阻まれ、教会関連の施設に身を寄せながら暮らしていました。
そこに突然起こった、ベルリンの壁崩壊。東西ドイツ統一後にベルリン自由大学に進んで、シングルマザーとして息子を育てながら、美術史を学ぶことができたといいます。しかし、東ドイツ時代、平和運動の何がそんなに問題になったのでしょう?
「剣を鍬に」という運動を知っていますか?と、エルケさん。
Schwerter zu Pflugscharen ― 剣を鋤に変えようー
これはソ連が1959年に国連に寄贈した彫刻に端を発するもので、旧約聖書にある、剣を打ち直して鋤とする、武器を捨てて、平和な暮らしをーという話をモチーフに、世界的な軍縮を目標としようとアピールするものでした。DDRでは、1980年代から、このモチーフが平和への祈り、平和運動へのシンボルとされたのです。
1981年、このモチーフをプリントしたワッペンが出回った時、エルケさんはこの運動に共感し、ジャケットにつけて登校しました。「国連へのソ連からの贈り物として、東ドイツの新聞で何度も紹介された彫刻です。「ユーゲントヴァイエ」(14歳になると行われる社会主義社会の成員となる式)にプレゼントされる本の中にも掲載されていました。だから、それがここまで大問題になるとは、夢にも思わなかったのです」
平和運動に関わる限り、この国で未来はない
エルケさんのワッペンを見たクラスの担任は、朝礼の際に彼女を教室の前に立たせ、皆の前でいきなり、説教をはじめました。
「今後、お前は大学進学はできないと思え」
さらに、友達が前に呼ばれ「エルケと付き合う限り、この国で未来はない」と絶交を迫られました。電車の中では、鉄道警察に捕まって、ハサミを突き出され、目の前でワッペンを切り取れと、強制されたのです。
FDJ(自由ドイツ青年団)に入っていたエルケさんですが、学校だけでなく、そこでもほかのメンバーが1人ずつ前に呼ばれ、エルケさんを批判するように言われました。
平和を望むことが、なぜここまで問題になるのか?
社会主義的な平和政治を目標に、そもそも国の手本たるソ連が推奨していることなのに、何が問題なのか?新聞記事を集め、このワッペンや平和活動について説明して自分の正当性を訴えたエルケさんは、ますます教師に目をつけられ、学校で孤立することになります。
「ロシア人の先生は、平和運動はSS弾道ミサイルに反対することだから反ソ連だ。お前はその発言だけでもこの国で死刑宣告をされてもしょうがない、とまで言いました。」
エルケさんの祖父母は、第二次世界大戦中から社会民主党SPDの支持者で、理想を持って始まった東独の体制が年々変わっていく様子を、斜めに見ていた人たちだったそう。そのため、周囲の空気を読まずに、いろいろなことに疑問を持つとすぐ口に出してしまう傾向にあったかもしれないと、エルケさんは、自分の子ども時代を振り返ります。
「初めてベルリンに来て、ベルリンの壁を見た時もそうでした。東ドイツでは「Antifaschistischer Schutzwall」(反ファシズム防御壁)という名前でした。この壁は、東ドイツ国民を「資本主義」の毒牙から守るために作られたと説明されたのですが、じゃあ、なぜ国境警備隊の銃口は、私たち東独国民の方を向いているの?と、聞いてしまったんです」。
DDR政府が手を出しにくい聖域、教会を拠点に
「剣を鍬に」のワッペンは1981年、10万枚もプリントされ、ティーンエイジャーたちに一気に広がりました。その勢いの凄さに不安を感じた東独政府は、教育機関や公共の場でのこのワッペン着用を禁止。エルケさんのように、ワッペンをつけて平和運動へと声を上げたことから東独政府に目をつけられた若者たちは、教会に集まるようになります。
「なぜ教会だったかって?特に、私たちが宗教心があったわけではありません(笑)東ドイツの教会は、西ドイツ側の教会に母体があったので、東独政府が手を出しにくい場所となっていたのです」
教会には1960年代から平和活動のグループが集まっており、80年代には「自由な言葉が集まる場所」として環境保護団体や東独政府に反対する活動家たちの拠点となり、ネットワークができていました。
その一つとして有名だったのが、ライプチヒのニコライ教会。ベルリンの壁崩壊につながる平和革命の引き金となった「月曜デモ」で知られる教会です。
ここの教区でも、1982年に「剣を鍬に」の運動を支持する15〜19歳の若者たちの集まりが行われました。この平和運動に関わることで国家権力と対抗し、学歴やその後の人生に影を落とすだけでなく、最悪、刑務所に入れられることもある。なぜそんなリスクを犯すのか?という大人からの質問に、若者たちはこう答えました。
「DDR国家はさらなる軍事化を進めている。軍事訓練の授業は軍隊への義務となりつつあり、しばしば大学進学すら不可能にしてしまう。それに対抗するのは、考えること、折衝すること、そして平和のために祈ることだ!」
1982年9月20日、ライプチヒのニコライ教会で、平和の祈りが行われました。週末が終わった後、最初の仕事の日の夜に集まろうー月曜デモの始まりです。各地に飛び火してベルリンの壁崩壊につながる、平和革命を後押しすることになったと言われている「月曜デモ」は、こうやって始まったのです。
学校から、友人たちから孤立し、進学への望みを絶たれたエルケさんもまた、教会をたずねました。
「東ドイツ時代、牧師の子どもは大学進学が難しかったので、教会に、大学入学資格試験を受けるための学校があったんです。そこに入れば、神学科か教会音楽という2つの学科しかなかったものの、大学進学への可能性がありました」。
1983年から86年まで、そこで学んだ彼女。同級生の多くは西側へ亡命し、そこで大学入学資格試験を受けて良い成績をおさめたといいます。
エルケさんはフンボルト大学の書店に職を得ますが、その後息子を生み、北部の小さな村で自給自足をするコミューンで、コックとして働くことになります。住む場所はあってもお金はなく、生活は不安定。そのコミューンからも徐々に人が減り、彼女はトラバントに子どもと全ての荷物を乗せて、再びベルリン、ミッテ地区へと向かっていました。
その日は、奇しくも1989年の11月9日。
夕方、彼女はロシア製の小さなテレビから、東ベルリンの国境が開いた、というニュースを耳にしたのでした。
「Invalidenstrasseの国境に駆けつけたのですが、ここは通してもらえなくて。そうこうしているうちに、北側のBornholmer Strasseの国境が開いたと聞いて、そちらに向かって、なんとか翌朝に西ベルリンに行くことができました!」
(C) Foto: Brian Harris/Alamy Stock Photo
東ドイツの人たちは、西の人たちにとって、加害者か被害者か英雄
西ベルリン、シャルロッテンブルク地区に保育園を見つけ、ベルリン自由大学で念願の美術史を学ぶことができるようになった彼女。
東西ドイツが統一して、西ドイツ出身のクラスメイトたちと話していて感じたことがあるといいます。
「彼らにとって、東ドイツの人たちは加害者か被害者か、もしくは英雄しかいないんだと。東ドイツから西側に逃げたり、東ドイツの体制と戦った人は、英雄。東ドイツの学校で教師たちに敵視され、大学進学の道を断たれた私は、体制と戦った英雄だと言われました。でも私は英雄ではありません。そんな、善と悪にはっきり分かれる話ではないのです……」。
楽しいことももちろんありましたー
とエルケさんは振り返ります。
「エアフルトから9歳の時にベルリンにやってきて、オランニエン・シュトラーセの近くに住んだのですが、当時はあそこはハインリッヒ・ツィレの絵にあるような、雑多で無骨な労働者が集まる地区。私はチューリンゲン訛りがあったのですぐは馴染めませんでしたが、親と一緒にオペラや映画を観に行ったりするのが楽しみでした。
いまもある映画館、KINO Babylonですが、あの映画館が、“Camera“という名前で、週に数回、Oranienburger Strasseで上映を行なっていたんです。いまは、タへレスと言われている場所ですね。あそこでタルコフスキー、ベルナルド・ベルトルッチ、アンジェイ・ワイダなどの作品を観ました。やはり近かったベルリンの国立歌劇場にはフランスやアメリカ軍の軍人も来ていました。コミッシェ・オーパーはモダンな作品を上演していましたね」
エルケさんはいま、ベルリンと、エーリヒ・オーザーの美術館がある東部ドイツの小さな街、プラウエンの2か所に家を持って、そこを行き来しています。プラウエンの人たちと話す時、「あなたはこちら側(東)の人だから」と親近感をもたれることに、ほんのりと複雑な思いを抱きながら。
ライプチヒのニコライ教会では、現在「剣を鍬に」運動に端を発する平和への祈り、月曜デモなどに関する展示が行われています。今回の記事の情報の一部は、その展示から引用しています。
ニコライ教会のサイト(独語)