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わたしのDDR〜 東ドイツ人は平和革命を成したが、その勝者は西ドイツ人だった

2020年、来年ドイツは、東西ドイツの再統一30周年を迎えます。東西ドイツ再統一はいったいどのように行われたのでしょうか?そして、統一によって”なくなってしまった国“東ドイツは、どんな国だったのでしょう?ここに生まれ育った東ドイツの人たちに、当時の話を聞く企画「わたしのDDR(東ドイツ)」!

ファッションモデルのレナーテさん、製菓店のコルネリアさん、芸術家のドリスさん、元看護師のハイジさん、テレビ局で働いていたウタさん、民主化運動とともに揺れ動く東ドイツの中で翻弄されたエルケさんに続き、

第7回は、エレン・ヘンドラーさんです!

Portrait
1948年、ベルリン生まれ。
東ベルリン、フンボルト大学で哲学と社会学を学び、青少年問題省(現在のドイツ連邦家族・青少年省)で働いていたエレンさん。1989年11月、彼女は、ギュンター・シャボウスキーとともに、東ドイツの新しい旅行法が話し合われた会議の場にいました。
注:シャボウスキーは、当時の東独政府広報官。伝説の“うっかり“発言、「東独国民の旅行緩和」についての報道発表で、「いますぐ(東ドイツ国民は誰でも、東独の国境を超えて旅行も自由になる)」と言ってしまったために、ベルリンの壁崩壊―国境が開くきっかけを作ったことで知られています。

東西ドイツの「統一」は「併合」だった

「シャボウスキーが言ったことが、うっかりだったのか、裏取引があったのかは知りません。なんにしろ、私たちが求めていたのは、自由な、それまでとは違う東ドイツでした。東と西がそれぞれに良いところを生かして1つになるならば統一もよかった。しかし、実際に行われた東西ドイツの統一は「併合」、東が西側に吸収される形だったのです。この状況をどう説明するのが一番わかりやすいでしょうか……、ある日、突然住んでいる家の持ち主が変わり「今日からは私の法律に従ってもらう」と言われるような感じでしょうか」と、エレンさんは言います。

即急な統一が、東ドイツの経済を壊した

「当時の西ドイツ首相ヘルムート・コールは、選挙で票を失い1989年秋にはCDU党内で彼を辞めさせようという運動も起こって、危うい立場にいました。だからせめて「統一の首相 Kanzler der Einheit」として自分の名前を残したかったのでしょう」エレンさんの顔に一瞬怒りが走りました。
いま、東ドイツに急に西ドイツマルクを導入したら、東ドイツの経済が崩壊すると識者たちが警告していたにも関わらず、それを無視したのです。
A46XYP Fall of the Berlin Wall: at the border crossing Chausseestrasse cars from East Berlin are greeted, Berlin, Germany
(C) Foto: imageBROKER / Alamy Stock Photo

旧東ドイツの人たちの2人に1人が失業した

「西と一緒になれば、パリやマヨルカに行ける!何もかもが自由だ!なんでも買える!と皆、喜んでいました。でも国境が開いても、パリやマヨルカに行くためには、西側のお金を稼ぐ必要がある。西側に吸収されたら、稼ぐ手段が無くなるというところまでは、考えが及ばなかったんですね。」
1990年、東ドイツの人たちは、年齢に応じて2000〜6000東ドイツマルクまでならば、西ドイツマルクを1:1で交換することができました。しかし、それ以上は2分の1、4分の1、換金時期を逃すと10分の1価値に目減りしました。
エレンさんは、1990年3月、東ドイツで初めて行われた自由選挙で公務員代表に選ばれ、その後連邦財務省に入ったため、東西統一による首切りの憂き目にあいませんでした。しかし彼女のような人は珍しく、統一後、東ドイツの2人に1人が失業。東ドイツ経済は大打撃を受けました。

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全国的に統一された教育システム

「東ドイツのよかったところは、授業のイデオロギーはともかく、保育園から高校まで、学校のシステムが全国的に統一されていたことでしょうか。いまは州によっても違いますし混乱しますよね……。また教育の機会均等が進んでいました。親の稼ぎによらず、誰でも奨学金をもらうことが可能で、大学への道は全ての人に開かれていました。東独ではいつも住宅難でしたが、大学に行く子どもとその親への住宅支援もありました」
前回登場したエルケさんは、平和活動に傾倒したことから大学に行けなかったーという話をしてみると、エレンさんは異議を唱えました。
「もちろん、なんらか問題があって大学に行かせてもらえない、そういった不幸な偶然はあったでしょう。でも生まれや社会的な層によって排除するシステムを、国家が作っていたわけではありません。平和活動をしていた人皆が大学に行けなかったわけではありません。東ドイツという国が間違っていた点は、科学者たちを蔑ろにするシステムだったことでしょうか。「労働者と農民の国家」でしたからね」

東ドイツの人は平和革命を成したが、その勝者は西ドイツの人だった。

1989年11月9日、壁崩壊の夜、エレンさんはベルリンの壁崩壊のニュースを夫から聞きました。彼女たちが住んでいた場所は、西ベルリン、ゾンネンアレーの国境のすぐ近く。「向こう側に行ってみようよ!」と盛り上がる夫を横目に、彼女は今後の流れに不安を抱き、家に残っていたといいます。そして、数ヶ月後、西ドイツからもらった歓迎金を使って高価なステレオを買ったというエレンさん家族。2人の息子と夫とともに、感慨深く音楽を聞いたそうです。
「東ドイツの人は平和革命を成した、と言われます。しかし、その革命の勝者は誰だったのでしょう?西ドイツの人だったんじゃないかと思うんですよ」

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>エレンさんとお母さん。

ナチスと戦った人たちが作る、民主主義国家

実は、エレンさんの父は、ザクセンハウゼン強制収容所の生き残りです。母は子どもの頃にイギリスに逃れ、迫害を免れました。親族80人が殺され、唯一の生き残りだった2人はイギリスで出会い、終戦後すぐの1946年、まずはハンブルクにやってきたそうです。イギリスで安全な生活をしていたのになぜ、そんな辛い思い出の残るドイツにわざわざ……?という私の疑問に、エレンさんはこう答えました。
「ヒトラーの目標は、ドイツをユダヤ人がいない国にすることでした。彼は、国からユダヤ人を追い払い、殺害し、ある意味それを達成したと言えます。私の父は、それが許せなかったのです。『ナチスの望みを成就させてやるものか。ファシズムと戦わねば!』と言っていました」
ハンブルクの放送局に就職したエレンさんの父。しかし局にはいまだナチ関係者が多く、統一ドイツをテーマとした番組を放送したため馘首されてしまったと言います。その後、東ドイツ、ベルリン(当時はまだ建国前なので「ソ連占領区」)にやってきました。
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>エレンさんのお母さんとお父さん。

「東ドイツが西に比べて良かった点」が語られる時、企業や政治の中枢にいまだナチス関係者が食い込んでいた西ドイツに比べ、東側は徹底的にナチスを一掃した、とよく耳にします。
ナチスと戦った人たちが作った民主主義国家ー反ユダヤ的な思想は起こらなそうに思えます。
しかし、1950年代初頭までは、スターリンの影響による反ユダヤ主義が広まっていたと、エレンさんは言います。チェコスロバキアでは、ユダヤ系の共産党書記長ルドルフ・スランスキーが死刑になるなど、「ユダヤ人はアメリカの帝国主義に加担する敵である」という考え方が広まっていたのだそうです。しかしスターリンが死ぬとその風潮は変わりました。
東ドイツでは、個人的に反ユダヤ的な動きを感じたことはなかったと、エレンさん。

芸術家のドリスさんの話にも少し出てきましたが、東ドイツには「ナチスに迫害された人々」という組織がありました。しかしこれはユダヤ人だけを保護するものではなく、迫害されていた人たち全てが対象とされ、また「ナチスと“戦った”のか」「ナチスに“迫害された”のか」で、待遇には違いがあったと言います。それでも、住居や車の所有などで優遇された点は多かったそう。東ベルリンのユダヤ人団体の所属は200人ほど、東ドイツ全国区で6000人ほどだったといいます。

その存在を無視されていた、ザクセンハウゼン強制収容所

東西ドイツが統一し、エレンさんの父は、国際ザクセンハウゼン委員会の事務総長になります。そして、イスラエルの新聞に広告を出し、ザクセンハウゼン強制収容所に収容された人たちはいないかと、呼びかけました。1996年、エレンさんたちは、イスラエル在住のザクセンハウゼン収容者の団体を作るために、イスラエルに旅立ちました。
「なぜなら、ここにも冷戦の影響があったからなんです。エルサレムにある、ユダヤ人大虐殺、ホロコーストの犠牲者たちを追悼するための「ヤド・ヴァシェム」。ここで慰霊のために燃え続ける炎の下に書かれた、アウシュヴィッツやベルゲン・ベルゼンなどの強制収容所の名前の中に、ザクセンハウゼンとブーヘンヴァルトはなかったのです。東ドイツにあった強制収容所は、その存在を無視されていたのでした」
注:なぜここで東ドイツが無視されていたのか?チェコやポーランドはあるのに?
それは「ハルシュタイン原則」のためだそうです。西ドイツが、ドイツで唯一民主的に選ばれてドイツを代表する正統性のある国家であり、ソ連以外で東ドイツを国家承認した国とは国交を断絶するーとしていたから。そしてまた、東ドイツはパレスチナを支持していたため、イスラエルとは対立関係にあったという背景もあったそうです。

エレンさんのお父さんとお母さんの話は、木畑和子さんの「ユダヤ人児童の亡命と東ドイツへの帰還」に詳しくインタビューが載っています。ご興味ある方はこちらも、ぜひ読んでみてください!
ユダヤ人児童の亡命と東ドイツへの帰還 キンダートランスポートの群像

 

著者紹介

河内 秀子

東京都出身。2000年からベルリン在住。2003年、ベルリン美術大学在学中からライター、コーディネーターとして活動。雑誌『Pen』『derdiedas 』などでもベルリンやドイツの情報を発信させて頂いています。趣味は漫画と東ドイツとフォークが刺さったケーキの写真収集、食べ歩き。蚤の市やマンホール、コンクリ建築も大好物。Twitterで『#日々是独日』ドイツの風景を1日1枚、アップしています。@berlinbau

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