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ベルリンへの道:オーダーベルガー・シュトラーセ

ベルリンの街をのんびり歩いて、街並みを見上げて色々なことを考える。知らなかった中庭を覗いてみる。そんな時間がとても好きです。第一弾の「ゾフィーエン・シュトラーセ(通り)」に続いての第二弾は、プレンツラウアーベルク地区にある、

「オーダーベルガー・シュトラーセ」Oderberger Strasse

生茂る並木の向こうにカフェやレストラン、お店が並んで賑わう通り。マウアーパーク(壁公園)に行くのに通ったことがある方も多いのではないでしょうか。いつも昔話ばかりで申し訳ないのですが、ここを通るたびに20年前はボロボロの通りだったのになあ……と、つい遠い目をしてしまいます。


いま、まさに最後に残っていたボロボロの建物の修復工事が行われているところ。大きなプラタナスの木が、気持ちの良い木陰を作っています。
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ベルリンの壁が崩壊した後、1990年代〜2000年代初頭の「東側がオシャレで、若者に人気の街」になりはじめた当初のプレンツラウアーベルクを知る日本人の友達は、この周辺をこう表現しました。「北斗の拳にでてくる荒漠とした街並み」。
↓下の写真は2005年撮影のものですが、、少し想像できそうです。
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その後、東ベルリン側でも中心部だったミッテ地区の地価が高騰して、お金のない若い人やアーティストたちはどんどん北上して、プレンツラウアーベルク地区に移り住むようになりました。住宅物件は次々とオーナーが変わり、まずはファサードだけがベージュやサーモンピンクにお色直しされていったのです。
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写真は2002年にオープンしたカフェとアンティーク家具店 Kauf Dich Glücklich。いまや全国区に支店を持つチェーン店になってますが、カフェはここだけ。以下のリンクで、オープン当時のオーダーベルガーシュトラーセの通りの様子を見ていただけます!Kauf Dich Glücklichいまと街並みの色合いが違うのはもちろん、なんとなく客層も違うような……

2010年くらいまでは、パステルカラーのファサードと第二次世界大戦中の弾痕が残るボロボロな壁とのモザイク模様が、この通りの特徴でした。
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それから10年以上が経ち、大抵のアパートは石炭暖房からセントラルヒーティングに大改装して、最上階にロフトがのっかって、高級アパート然としています。でも今でもちょっと東ドイツ時代に塗ったであろう壁の塗装が残っているところもあって、その歴史のモザイクを見るのが、この通りを歩く楽しみの一つでもあります。
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》通りのひとかけら《
VEB
旧東ドイツ、DDRのグッズだけを扱う VEB Orange
VEB(旧東独の「人民所有企業」)を店名に掲げる旧東ドイツ製の雑貨、家具などの専門店「VEB Orange」。100平米の空間に、オーナーのマリオさんまで全て旧東ドイツ製のものでぎっしりうめられています。今はなかなか手に入らないDDRデザインは、どれも値段が上がってしまってなかなか買えないですが、ショーウィンドウに並ぶテレビ塔グッズなど眺めているだけでも楽しい。マウアーパークの散策帰りに、ここで東ドイツのポストカードを買って、久しぶりに手紙を書くのもいいかもしれません。

 

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さて、まだベルリンの壁があった東ドイツ時代、このオーダーベルガー・シュトラーセはどんな状況だったのでしょうか。マウアーパーク(壁公園)に繋がる通りだから、ベルリンの壁のすぐそばだったというのは想像がつきますが、ベルリンの壁周辺のアパートを立ち退きさせたり、更地にしてしまったりしたような痕跡はありません。ベルリンの壁に突き当たる袋小路になっていたそうです。
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調べてみると、1980年代には、この通りに立ち並んでいる古い建物を潰してプラッテンバウという団地のような建築を立てる計画があったよう。しかし、その際に住民による反対運動が立ち上がり、通りを守ることができたのだとか。この団体によってオーダーベルガー通りにあるいくつかの中庭を繋いだ「ヒルシュホーフ(鹿の中庭)Hirschhof」という名前の、集会所のような公園が完成。アート作品が飾られた庭ではライブや演劇が行われ、「天国の庭」という名前で小説に描かれるなどの伝説の場所になっていきます。
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近隣の住民だけでなく、東ベルリンのアーティストやアンダーグラウンドシーンの人たちにまで人気が集まるようになると、余計なモノの興味まで引くようになってしまいます。シュタージこと国家保安省、つまり秘密警察です。「ヒルシュホーフ」は、1984年から1988年まで、シュタージの監視下にあり、そこで開催された催し物の批評から訪れた人の名前まで詳細かつ定期的な監視資料が残されている珍しい場所でもあるそう。
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実はこの、「ヒルシュホーフ」はいまは残されていません。探してみると、近くに公園があるのが見つかりました。入り口の鹿の足跡につられて中に入ってみると、いろいろな遊具が置かれていましたが、奥には壁があって通り抜けができません。その奥が、本来の「ヒルシュホーフ」なのだそう。区は伝説の場所を緑地として保護しようとしたけれど、土地を買ったオーナーとの裁判に負けて、再び壁を作るハメになったのだそうで、ベルリンの壁がなくなったのに、少々寂しい話でもあります。
でも、いまもこの通りの一部には、結束力のあるパンクな住民が住んでいそうなアパートもあって、ベルリンの壁があった時代の反骨精神がちょっと残っているようにも感じます。コロナ禍の間には「ユニバーサル・ベーシックインカムを!」「愛だけがその答え」「人種差別を止めよう」などと書かれたスローガンがバルコニーに並んでいました。

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そして、この街のもう一つの名物の一つが、1898年に作られた公共プール「シュタットバート・オーダーベルガー・シュトラーセ Stadtbad Oderberger Strasse」の跡地。
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入り口にご注目!
タツノオトシゴやカエルなどの水のモチーフの上に、ベルリン市の紋章である熊さんが魚?水の精?に乗って鎮座しているのです。1986年に閉鎖された後、プールに水が入ることはありませんでしたが、プール空間を使ってクラブイベントやパーティが行われたり、独特の音響効果と空間の雰囲気が最高でした!2011年に近隣の語学学校がこの場所を買って、ホテルに改装。2016年にリニューアルオープンして、再びこの場所はプールとして泳ぐことができるようになったのです。ホテルはかなり改装されていますが、プールの建築部分は、当時の雰囲気が一部残されています。
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また、19世紀からいまもこの場所で現役の場所といえば、消防署。ここ数年の猛暑の際には、消防のホースで道中に水をまき、消防車にまで水をかけ、軽快なステップを踏んで署内に戻っていく消防士さん。そしてそれに応えて耳をつんざくようなサイレンを鳴らしまくる消防車。
……フリーダムなベルリンの雰囲気が、この通りの一角にはまだ残っているようでした。

著者紹介

河内 秀子

東京都出身。2000年からベルリン在住。2003年、ベルリン美術大学在学中からライター、コーディネーターとして活動。雑誌『Pen』『derdiedas 』などでもベルリンやドイツの情報を発信させて頂いています。趣味は漫画と東ドイツとフォークが刺さったケーキの写真収集、食べ歩き。蚤の市やマンホール、コンクリ建築も大好物。Twitterで『#日々是独日』ドイツの風景を1日1枚、アップしています。@berlinbau

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