日本よりも「カジュアル」なドイツのお葬式
今回、日本とドイツのお墓の違い、お葬式の違いについて書きます。先日行った母の葬式のエピソードについても書いていきます。それではご一読ください。
ドイツのお墓は「自由」
ドイツのお墓の特徴はなんといっても「発想が自由」なことです。誰と・どこの・どのようなお墓に入るかは生前の「本人の意思」によるところが大きいです。日本で見られるような「家制度と結びついた考え方」はないため、「妻が夫の家の墓に入る」という慣習はありません。ですから、余談ではありますが、日本のように「夫や夫の親族と同じお墓に入りたくないから離婚を考える」というような発想もドイツにはありません。
もちろん、夫婦であれば同じお墓に入ることも多いです。夫婦のどちらかの親族の墓地に、夫婦のお墓を立てることもよくあります。つまり、「嫁に行った娘」が自分の両親の墓の隣に「夫婦墓」を立ててもいいし、自分の両親の墓に入ってもかまいません。そのためお墓は「核家族だけでもオッケー」「先祖代々でもオッケー」「おひとり様でもオッケー」です。
筆者の亡くなった母(1970年から半世紀以上もドイツに住んだ日本人)は生前「お墓はいらない」と話していました。でも母の死後、弟と話し合ったところ、弟が「やっぱりお墓は作りたい」と話したのは先に書いた通りです。弟も筆者も日本に住んでいるので、「母のお墓を日本で建てたほうが墓参りをしやすいのではないか」とも思いましたが、日本でお墓を建てるのはやはりちょっとハードルが高いのです。
まず、母はドイツ人である父と結婚し、先に亡くなった父の墓はドイツにあるため、日本国内で「夫と一緒のお墓に入る」という選択肢はありません。母の両親、つまり筆者から見た祖父母は猪苗代湖の近くの福島県郡山市湖南町福良に眠っています。田舎には昔ながらの風習があり、長男ではない祖父がこの墓地にお墓を建てる際、親戚や近所の人の許しが必要だったそうです。そんな複雑な田舎の状況を考えると「長年、外国に住み、外国人と結婚していた娘」が日本の両親のお墓に入るということについて、地元の人に納得してもらえそうにありません。そもそも福良は弟と私が住む東京からのアクセスが良くありません。
弟が「青山墓地はどう?」と私に聞いたこともありました。確かに青山墓地は弟と私のアクセスしやすい場所にあります。けれど、母親からしてみたらきっと「なぜ私がこんな縁もゆかりもない青山にいるのかしら?」なんて思うのではないか・・・・と想像し、不謹慎ながらクスっと笑ってしまいました。
そういったなか、いわば消去法で、「生前の母の生活圏に近いミュンヘンのWaldfriedhofにお墓を建てよう」「父の眠るお墓の隣にお墓をつくろう」ということになったのです。お葬式もドイツで行うことにしました。
日本よりも「カジュアル」なドイツのお葬式
日本にも最近、色んな形のお葬式がありますが、ドイツのお葬式にも様々な形があります。たとえばアーティストだった故人が「明るい色が好きだった」場合、「お葬式にはカラフルな服でお越しください」と招待状に書かれている場合もあります。
上に書いたような「突飛なスタイルのお葬式」ではなく「ごくごく普通の平均的なドイツのお葬式」であっても、日本よりもカジュアルな形のものが目立ちます。「喪服でなければいけない」ということは決してなく、参加者の服はザックリと「黒であればよい」という感じです。色が黒でなくても、落ち着いた感じの色であれば可です。母のお葬式ではみんなこんな服装でした。

母は社交的な性格ではありませんでした。近所で仲良くしている人もごくわずか。だからお葬式に参列してくれるのは、昔から仲良くしているご近所友達のクリスティーネさん、母の死後に「連絡がとれない」と警察に通報してくれたご近所のシュミットさん、弟と私にとって異母姉のインゲだけかな…なんて思っていました。
でもここで「嬉しい誤算」がありました。母の旧友のイルムガルドさんがハンブルクからミュンヘンまで来てくれました。イルムガルドさんは母と1970年代にミュンヘンの大学の学生寮で同室でした。「お母さんとは女子トークをたくさんしたのよ」とイルムガルトさんは笑います(上の写真の左端の笑顔の女性がイルムガルドさんです)。母は生前、日本人とはあまり縁がなかったんだろうな…と思っていましたが、「お母さんと本当に色んな話をした」という日本人女性がデユッセルドルフから来てくれたのも「良い意味で想定外」でした。
お葬式の様子
2月、寒い日が続くなか、母の葬式の日は快晴で春を感じさせるような陽気でした。当日は昼過ぎに全員がミュンヘンの墓地Waldfriedhofに集まったところで、セレモニーホールに入り皆で席に着きました。母の骨壺のそばにイルムガルドさんが花束を添えてくれました。


席につきお別れの歌が流れるのを待っていたところ、後ろに座っていたクリスティーネさんが筆者にそっと耳打ちします。「ねえ・・・・入口を見て。蝶々が飛んできたよ」と。ドアに目をやると、本当に蝶々がいました。やがて皆が座っている席のそばの地面に留まりました。なんというタイミングでしょう。あまりスピリチャルなことを信じない私ですが、ちょっと嬉しくて涙が出てきてしまいました。
母とのお別れの曲は二曲。両方とも弟が選んだものです。ショパンの「葬送行進曲」(ソナタNo.2)とスメタナの「モルダウ」でした。通常はセレモニーホールで神父さんまたは牧師さんによる「故人の平和を祈る語り」があるのですが、母は特定の宗教を信仰していたわけではないので、ここは省略しました。
セレモニーホールから、お墓のある場所までみんなでお話ししながら歩く
セレモニーホールの歌が終わった後、葬儀者が母の骨壺の前でお辞儀をし、骨壺を手に持ち、先頭だって母のお墓となる場所まで歩きました。私たちも後を追うようにその後を歩きます。

「ひとことも発してはいけないような雰囲気」ではなかったのが居心地よかったです。母の墓地となる場所にたどりつくまでに、みんなで雑談をしながら15分ほど歩きました。クリスティーネさんが言いました。「お母さんはHUGENDUBEL(ミュンヘンの大手の本屋さん)が大好きで、よく通っていたでしょ。HUGENDUBELの創業者ファミリーのお墓もここWaldfriedhofにあるのよ。大好きだった本屋さん一家と同じWaldfriedhofの墓地に眠れて、お母さんは幸せだと思うわ」
母のお墓となる場所に着きました。葬儀者が「では、皆さんで最後のお別れをしてください」と語った後、彼は骨壺を土に入れます。ここから弟と私がシャベルで母の骨壺に土をかけ、心の中で母にお別れを告げます。そして、シャベルを参列者に手渡します。次の人がまた次の人にシャベルを渡し…という流れが続き、参加者全員がシャベルで骨壺に土をかけ終えたところで、母の名前が書かれたクランツが添えられました。



お別れの後はLeichenschmausを
母を埋葬し、お別れを告げた後、Leichenschmausの場へと移動しました。このドイツ語のLeichenschmausを日本語に直訳すると「死体の饗宴」ですので、日本人はちょっとビックリしてしまうかもしれません。要はお葬式の後の食事会のことです。食事会は両親が元気だったころ、家族みんなで行ったこともあるなじみのある地元のレストランで行いました。

ここでのんびりとみんなで話すことができました。「ドイツのオレオレ詐欺の電話は高齢者だと思われる古風な名前をターゲットにかかってくることが多いけれど、母の名前はMotomi(元美)だったから、母はいつも「ドイツの人には私が高齢者か若者か分からないし、性別も分からないから、私の所に詐欺の電話はかかってこないの」と自慢をしていた」と私が話すと、テーブルのみんなが笑ってくれました。

先に母は社交的な性格ではなかったと書きましたが、母のことを思ってくれる人たちが確かに存在することを嬉しく思いました。参加者の複数の人が“Motomi wollte immer alles alleine machen.“(意訳「(何か手伝おうか?と聞いても)モトミはいつも何でも自分でやりたがっていた」)と母の性格を表すようなエピソードを明かしていました。近所の人や母の旧友とともに明るい雰囲気のなか、母を見送ることができました。
ミュンヘンに墓をたて、お葬式もミュンヘンでやって良かったと思っています。なぜなら、母が生前交流していた人のほぼ全員がドイツに住んでいます。お葬式をミュンヘンで行ったことで、皆さんがお葬式に来てくれたのです。
いま、日本に帰国した筆者と私のもとには母の友人たちから「さっき散歩がてら、お母さんのお墓にお参りしてきたよ!」というメッセージが入ってきます。それらを読んでいると、母の生活圏のミュンヘンにお墓をたててよかった、みんなが気軽に立ち寄れる場所をつくることができてよかった、そう思うのでした。
サンドラ・ヘフェリン
