移民都市の縮図:文化のカーニバル
5月の精霊降臨祭(Pfingsten)の週末、30℃に達する季節外れの暑さのなか、ベルリンで30回目となる「Karneval der Kulturen(文化のカーニバル)」が開催された。
日本語では「文化のカーニバル」と訳されるが、ここでいう文化はドイツ語の Kulturen 、つまり複数形である。ベルリンという都市を形づくる多様な文化的背景を、祭りという形で可視化するイベントだ。
目玉はフリードリヒスハイン地区で行われたドイツ最大級のパレードで、今年は約77万人が参加した。クロイツベルク地区で開かれたストリートフェスティバルを合わせると、来場者は110万人を超える。
パレードには、ベルリンに暮らすさまざまなルーツを持つ人々が参加する。それぞれ伝統衣装をまとい、音楽や踊りを披露しながら旧東ベルリンの大通りを練り歩く。サルサや中国の獅子舞のように広く知られたものもあれば、どこの地域のものか調べなければ分からない踊りや音楽もある。沿道の観客は彼らに声援を送り、ときに一緒に踊り、飲食を楽しむ。多文化都市ベルリンを象徴する光景だ。




カーニバルの誕生
このカーニバルが始まったのは1996年。東西ドイツが再統一されてからまだ数年しか経っていない時期だった。
当時のドイツでは、外国人排斥や極右ナショナリズムの台頭が大きな社会問題となっていた。統一によって「ドイツ人」という国民意識が高まる一方、バルカン半島の紛争などを背景に移民や難民が増加していた時代である1。
そうした状況のなかで、1993年、移民の多いクロイツベルク地区「文化のワークショップ」が始まった。ベルリンに生きる多様な人々の存在を可視化し、移民コミュニティがもたらす多様性を祝う場として始まったワークショップは、1996年からは現在のカーニバルの形となり、主にクロイツベルク地区で開催されてきた(2025年と2026年は大規模工事の影響により、パレードのみ隣接するフリードリヒスハイン地区で実施された)。
ベルリンの多様性
話をカーニバルに戻そう。
ベルリンには190を超える国や地域にルーツを持つ人々が暮らしている。人口の約3分の1は、自身あるいは親の世代に移民の背景を持つとされる。
そのルーツは実にさまざまだ。西ドイツが高度経済成長期に受け入れたイタリア、トルコ、ギリシャ、スペインなどからの労働者(いわゆる「ガストアルバイター」)。あるいは東ドイツが社会主義諸国から受け入れたベトナム、モザンビーク、キューバ、モンゴルなどの労働者。そして、その家族や子ども、孫の世代。もちろん、毎年それぞれ全く別の理由からベルリンに拠点を移す人だっても多くいる。
カーニバルのパレードは、そうした人口構成を(ある程度)映し出している。今年は70のチームが参加し、それぞれの踊りや音楽を披露した。日本出身者を中心としたグループは、一足早い盆踊りで観客を楽しませていた。
祝福とエキゾティシズムのはざまで
この祭りは、少数派の人々が街の主役となり、声と舞台を獲得し、多文化社会という抽象的な言葉が生身の人間の姿として立ち上がる場である。しかし同時に、「エキゾチックなもの」への欲望を映し出す鏡である、という批判もある。
このような場では「文化」がしばしば国家や民族と結びつけられ、分かりやすいイメージのパッケージとして提示される。観客が「本場らしい」「本物らしい」と感じるそのイメージは、自分とは異なるものに対して抱く期待や憧れの裏返しでもあるからだ。
それでも「文化のカーニバル」は30年もの間、人々が出会い、交流が生まれる場であり続けてきた。そこには、多様性を祝福する試みと、それを単純なイメージへと回収してしまう危うさが同居している。
そうした矛盾を抱えながら続いてきたこの祭りは、多文化共生が決して完成形ではなく、絶えず交渉され続けるプロセスであることを示している。「文化のカーニバル」は、その意味で移民都市ベルリンの縮図なのかもしれない。

- ちなみに、1990年代初頭の極右暴動を知る上でおすすめしたい作品が、映画『ロストックの長い夜』(2014年)だ。1992年、ドイツ北東部ロストックでネオナチの若者らがベトナム系住民の住居を襲撃した事件を題材にしている。監督は、自身も移民の家庭に育ったブルハン・クルバニ。後に『ベルリン・アレクサンダー広場』(2020年)でも高い評価を受けた映画監督である。 ↩︎