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ドイツと「自然」の複雑な関係

ドイツ語では、「もちろん」「あたりまえ」という意味で、日常的に natürlich(自然な)という言葉が使われる。話し手がどこまで意識しているかは別として、「自然であること」は、感覚的な正しさや当然の秩序と深く結びついている。

しかし、歴史を少し遡ると、ドイツにおける「自然」のあり方は、時代ごとにまったく異なる姿を見せてきた。何が自然で、何が不自然なのか。自然は恵みなのか、脅威なのか、それとも資源なのか。自然をめぐる言説は、その時代の社会や政治を映し出す鏡だとも言える。

今回は、ドイツ歴史博物館で開催されている企画展「Natur und deutsche Geschichte. Glaube – Biologie – Macht(自然とドイツの歴史:信仰―生物学―権力)」をもとに、現在ドイツと呼ばれる地域で、人々がいかに「自然」を認識し、思考してきたのかを振り返ってみたい。

神の自然:中世

「自然」(Natur)という言葉がラテン語からドイツ語圏にもたらされたのは、中世初期のことだった。当時、人々にとって自然とは何よりも「神によって造られ、与えられた秩序」だった。人体の構造(四体液説)や社会構造、さらには人間の「愛」という感情の根源さえも、神が定めた自然の摂理の一部と考えられていた。

興味深いのは、「人間こそが自然の秩序を乱す存在である」という見方が、すでにこの時代から存在していたことだ。キリスト教の実践者たちは、人間による自然破壊を原罪の一形態として捉えた。そして、神の秩序である自然と共生するため、自らに禁欲や苦行、祈りを課した。

日本語でうさぎを「羽」と数えるのは仏僧が禁じられていた四つ足動物を食するため、という説があるが、「神の秩序」からの逸脱はどうやら普遍的なものらしい。コンスタンツ公会議(1414ー1418年)でボーデン湖畔に集まった僧侶たちは、断食の間、マス(Bodenseefelchen)を「川の野菜」と称してタンパク源にしていたという。

自然の体系化と支配:近世

近世に入ると、キリスト教的世界観を基盤としつつも、自然は「観察し、記述し、体系化する対象」へと変化していく。神から与えられた資源の実用性を探求しようとする知的関心が高まる一方で、鉱山採掘や大規模な森林伐採による環境破壊も深刻化した。

さらに、自然の利用規模が拡大するにつれ、自然の利用は支配や抑圧の論理とも不可分になっていく。たとえばドイツには、モーリシャス諸島で奴隷労働によって伐採された木材が輸入され、家具などに用いられた。これは、自然の管理が個人の営みを超え、権力と結びつき始めたことを示している。

「アメリカからもたらされた、金より重要な発見」と言われたジャガイモは、植民者たちがインカ帝国の住民から学んだ保存技術によって欧州大陸へ運ばれた。プロイセンではフリードリヒ2世が飢饉対策として栽培を命じたことで広まり、18世紀後半の人口増加の半分はジャガイモによるものだったとさえ言われる。(”Der König überall” Robert Warthmüller, 1886年)

森の神話とナショナリズムの誕生:19世紀

工業化の時代を迎えると、自然、特に森林は、薪や木材を供給する経済資源として管理されるようになった。しかしその一方で、急速な近代化によって失われつつある「美的な聖域」あるいは「神話的な場所」としても見られるようになる。

この後者の自然観は、19世紀の国民運動(ナショナリズム)と強く結びついた。当時、現在のドイツ地域は神聖ローマ帝国の一部をなし、300を超える小領邦に分裂していた。ばらばらだった人々が「ドイツ国民」という一つの共同体意識を構築していく過程で、象徴として選ばれたのが「森」だったのだ。

国民主義者たちは、「ドイツ人は深い森に生きたゲルマン人の子孫である」という物語を広めた(実際には、「ゲルマン人」を自称した集団はなく、「ゲルマン人」は常に外部からの呼称だった)。女神ゲルマニアの冠を飾るナラ(„Eiche“)の木は、新たに形成される「国民」の象徴となり、森は単なる自然ではなく、「原風景」として聖格化された。

女神「ゲルマニア」(1848/49年)。盾には双頭ワシが、ゲルマニアの背景にはナラの木が描かれている。絵画に並んでナラの切り株も展示されていた。

19世紀後半には、「ドイツらしさ」と聞いて真っ先に森を思い浮かべるイメージが定着していく。このロマン主義的フィクションは、人々を団結させる一方で、「それ以外」を排除する装置としても機能し、たとえばユダヤ人に市民権を与えない根拠の一つとして利用されたのである。

同時に、植民地でも自然は支配の道具となった。ドイツ領東アフリカ(現在のタンザニア)では、ドイツの森林学を一方的に適用し、現地住民による森林利用は「非合理的」と低く評価された。そして「自然保護」を名目に、住民の森林利用が厳しく制限された。さらに人頭税が課され、支払えない者はプランテーションでの強制労働へと送られた。一方で、この土地の自然はドイツ本国では「無人の楽園」として美化され、植民地支配の暴力は覆い隠された。

ドイツ領東アフリカ(現在のタンザニア)にあるキリマンジャロ山をドイツ人画家ヴァルター・フォン・ルクテシェル(1882-1941)が描いた作品 “Kibo-Kilimandscharo”(1914年)。

ナチス時代:「ドイツ的景観」という政治プロパガンダ

ナチス政権下でも、「自然」は政治的に重要な意味を帯びていた。東方への領土拡大、いわゆる「生存圏」の拡大を進める中で、ナチスは占領地の景観を「ドイツ的」なものへと作り変える植林計画を構想し、実践した。風景とはその土地に住む人々の精神を映し出すものだとされ、ドイツ人の「生存圏」となるべき土地からは、「非ドイツ的」な人間も風景も排除されるべきだとされたのである。

また、ナチスがヴァイマル共和国から引き継いだ高速道路網(アウトバーン)計画も、「自然」と結びつけて宣伝された。鉄道が景観を一直線に切り裂く「不自然」な存在であるのに対し、アウトバーンは地形に沿って設計された、「ドイツ的で自然な道路」だと喧伝されたのである(実際には、予算不足や工期短縮のため、自然を大きく破壊する直線道路やトンネル建設も少なくなかった)。

ナチスのプロパガンダポスター「ドイツの帝国高速道路」。

無垢ではない「自然」

こうして振り返ると、ドイツの歴史において「自然」とは、決してただそこに存在する無垢なものではなかったことがわかる。神の秩序として崇められ、開発すべき資源として扱われ、民族の起源や国民のアイデンティティを証明するための神話として繰り返し解釈され、利用されてもきた。

企画展の展示は、東西ドイツの自然観を経由して1980年の「緑の党」誕生を前にして終わっているが、「自然」を社会がどう捉えるかという視点は、現在のドイツを考える上でも重要な手がかりを与えてくれるはずだ。

展示の最後には訪問者が思い思いの絵やコメントを残していた。

参考:Gross, Raphael und Voss, Julia (hg.): Natur und deutsche Geschichte: Im Spannungsfeld von Glaube, Biologie und Macht, Matthes & Seitz Berlin, 2025.

著者紹介

美濃部遊

1996年生まれ。東京外国語大学でグローバル・スタディーズを学ぶ。大学在学中の2019年より、フリーランスとして主にドイツ公共放送の取材・番組制作に携わる。2021年から2026年までゲーテ・インスティトゥート東京に勤務。2026年よりベルリンの博物館にて勤務。

Instagram : https://www.instagram.com/yu.minobe/

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